ちょっとひねったタイトル考えたら長すぎて途中で切れたorz

やっぱり人間、恋愛のひとつやふたつ経験しないとだめだと思うんですよ。
特にクリエイターや演技者なんてのは、フィクションの中にそういうものを盛り込まなきゃいけなくなったときに
実際にそういう経験が無いともうどうしようもない。
フィクションってだけで嘘なのに、それを裏打ちするのが想像という名の嘘では、ちゃんとしたものを生み出すことは出来ない。
恋愛に限らず、そのようなことを生業にする以上は経験というものを本当に大切にしないといけない。
 
で、WHITE ALBUMの話なんです。
 
タイトル、スタッフ、キャスト、どれをとっても注目に値する作品です。4話まで観ました。
 
こういう言い方をすると「何様?」とか言われそうだけど、冬弥にはかなり共感できるというか、
作品が冬弥に共感できるように作られている。
やってること自体はSchoolDaysと大差ない気がするけれど、誠はあの作品に登場する女性キャラと比べてあまりに
「不誠実な描かれ方」をしていた。途中から一人の男性キャラじゃなくて「エロゲの主人公」に成り下がる。
冬弥にはそういう気配が無い。彼の心情はこれからも誠実に描かれ続けるだろう。WHITE ALUBUMの他の登場人物と同じくらいに。
俺はそういうのにあまり詳しくないから、この作品のキャラクターの心情の動きがどこまで真に迫ったものかは判断できないけれど。
 
いろいろ物議をかもしているらしい「地の文」のテロップによる描写。
ノベルゲームにおいて地の文は主人公の主観であり、本来ならこれは文字でなく映像演出で表現されるべきもの
というのはわかるんだけど。だからといって真っ向から批判すべきだろうか。
「地の文」といえば、涼宮ハルヒの憂鬱が思い出される。
主役のキョンは所謂ナレーションを兼ね、小説の地の文に当たるような状況描写や説明を淡々と読み、
あるいは会話の中で彼がふと思ったことが彼の口からではなく、ナレーションとして視聴者の耳にのみ届いたりする。
ホワイトアルバムにおけるテロップは後者に当たる方法でしか使われない。
冬弥が会話の間にふと思ったこと、言いたくても口から出なかったこと、虚空を見つめながら反芻する言葉、
それらが音声としてではなく、文字情報として視聴者の眼に入り込んでくる。
この「文字情報」という形式が一定の効果をもたらしていると思う。
 
例えば我々が上記のように会話中にふと口から出したのとは別の言葉を思い浮かべたとする。
その言葉は果たして、音声として脳内に位置を占めているか。自分で喋ってもいなければ、耳から入ってきてもいない。
筆者は医学には疎いのでこの先は完全に憶測だが、
脳内で言葉を思い浮かべるという行為は、テロップを見てその言葉を「脳内再生」する行為に非常に近いのではないか。*1
ホワイトアルバムを観ていてそのテロップが現れるたび、「言葉を思い浮かべる」という点で視聴者の脳内は冬弥の脳内と否応なしにシンクロし、
結果として筆者は冬弥に対して強い共感、親近感を得ているのではないだろうか。
 
まあ、前野智昭にしてみれば「喋らせろよー」って感じかもしれないけど。

*1:ハルヒ」において会話中にキョンのナレーションによる横槍が入ると、その間は意味のある会話を続けられず、会話のテンポがおかしくなることがあった。ホワイトアルバムは少なくともその問題は完全に回避している。