表題は適当だが

こないだ取り上げたガンダム00第2期第3話の会話のシーン。
刹那の「自分だけ幸せなら〜」は会話の中における自分と相手の立場を全く考慮しない
浅はかな発言であるに過ぎないのだが、実はその直前、
サジの「世界は平和だったのに・・・。」にこそ多くのものが含まれているんじゃないか、
と思ったので書いてみる。
 
サジのこの発言には非常に問題がある。
平和だったのはあくまで「彼の周りの世界」であり、彼はその外側に関してはあまり感知せず、
「無関心」であった。
だから彼は、「僕の世界は平和だったのに・・・。」と言うべきなのだ。
むしろ、社会に出て丸4年、それくらいのことは言えるようになっていても全くおかしくない。
それに、そう言ったほうが直後に来る刹那の「自分だけ〜」という発言との相性もいいではないか。
なぜ彼は、「世界は平和だったのに・・・。」などという、第1期の出来事をまったく経験していないかのような
無知で稚拙な発言をしてしまったのか、あるいは、しなければならなかったのか。
 
第1期においてサジ・クロスロードは、戦争を経験しておらず、テレビ越しにそれを見るのみだった。
彼の所在と名前に違わず、彼は現代社会における日本人を象徴すべく物語に登場する。
ただ、その象徴の具体的内容が「無知」であることがやはり問題になる。
第1期をチラチラと見るにつけ、彼があまりに物を知らなくて唖然としたものだ。
そして、その「無知という属性」は第1期全26話の経験を乗り越えてなお、
彼のキャラクターの中心に据えられ続けているといえるだろう。
 
サジは物語の中で変化することがなかった。
物語によって変化しないことを求められていたともいえるだろう。
では、その物語における、サジの役割とはなんだろうか。
物語の作り手は、サジに何を託しているのか。
答えは難しくない。「平和ボケしている」ことであろう。
 
日本という平和な土地に生まれ育ち、争いを知らず、知ろうともせず、
ただそこにある平和を安穏と享受する無知で愚かな青年。
そして、彼は実際に自らのすぐそばに「戦争」が迫り、肉親を失い、恋人と離れ離れになっても、
平和ボケから完全には立ち直ることが出来ず、無知にして愚かなまま体制に抑圧される。
そして、プトレマイオス二世に乗り込んだことで決定的に「戦争」と関わることとなった今後、
彼はおそらく、無知にして愚かなまま、流されるままに戦いに赴くことになるのだろう。
そしてそのときにこそ、彼に大きな変化が訪れるはずだ。
 
つまり、ガンダム00におけるサジ・クロスロードというキャラクターには、
愚かにも平和ボケしていたがために不幸になり、そのまま赴いた戦場で自らの愚かしさを感じる
という役割が与えられているといえる。
はっきりいうと、酷い話である。
「平和ボケは罪だ。」「平和ボケしているといつか後悔する。」と言っているようなものだからだ。
現代日本に平和ボケしていない人間がどれだけいるというのだろう。
筆者だって、戦争なんてものを実感したことは一度もないし、他国で今も起こっているであろう争いにも実感はわかない。
当然だ。日本に暮らしているのだから。
いくら世界の争いについて学んで知識を得たところで、日本に住む日本人にそれを実感など出来ない。
平和ボケとはそういうものだと思う。
 
以前、ガンダム00モビルスーツを兵器として描くことには成功しており、
それがミリタリーファンの心を掴んだのではないか、と書いたが、それに付け加えるべきかもしれない。
 
ガンダム00は平和ボケを徹底的に否定する文脈で描かれており、
だからこそ「自分は平和ボケしていない」と感じている一部のミリタリーファンの共感を得たのではないだろうか。
平和ボケしていない日本人ミリタリーファンがどれだけいるのかは、未知数だけれども。