(今更だが)マクロスF、完結。

何か凄い作品だった。
 
今までのシリーズで培った「マクロスの歴史」を最大限に「浪費」した作品であるといえるかもしれない。
最終話にこれでもかと詰め込まれた超展開の連続とマクロスプラスネタに涙。
全25話にわたる、壮大なる「ファンサービス」。
 
そしてラスト、早乙女アルトはついに憧れ続けた「空」を手に入れる。
そう、色恋沙汰にまみれたこの物語の最後に、主人公たるアルトはシェリルでもランカでもなく、
「自らの舞」を選んだように見えてしまう。
あらゆる意味でこの男、イサム・ダイソンの再来ではないか。
こいつに惚れた女は辛いだろうなぁ。
 
しかし久しぶりに、「大団円」をアニメで見た気がする。
あまりの超展開に批判も多いらしい今作だが、きちんと物語を終わらせたという点で高く評価できるし、
そもそも最終話が「凄いこと」になるのはシリーズの伝統であるとも言える。*1
この最終回を酷評する人には「じゃあどうだったらよかったのよ」とお聞きしたいところである。
 
そういえば、
いろいろブログを巡っていると、「いかにして物語を完結させるか」は現代において非常に問題で、
「諸悪の根源を打ち倒して大団円」というのはもはや古臭く、
かといってそのような古臭さを回避して物語を終わらせようとすれば
「全ての消滅」などという無限力(まさにデウスエクスマキナか)の発現の可能性が生まれてしまい、
じゃあどうするといったところで、
「物語が終わらない」という終わり方が用いられるようになっているらしい。
 
個人的に最終話まで見たアニメがとても少ないので大きなことは言えないのだが、
確かに、最終話のスタッフロールの最後に「完」とついても違和感のない最終話は多くない気がする。
「日常」を描く作品ならばそれは当然のことといえるのだろうが、
「非日常とその終わり」を描くべき、起承転結のハッキリした「物語」においてはそれは少し異常なのかもしれない。
それとも、「大団円」というラストシーンが古いのではなく、
そのような「物語」というものが既に古臭くなってしまっているのだろうか。
 
一応自主制作とはいえシナリオを考えている人間からすると由々しき問題だ。
大団円はギャグで誤魔化す、あるいはギャグで固めたシナリオの仕上げとしてしか使えず、
破滅系のエンディングは明らかに悪い印象しかなく、
人の力で破滅を回避する物語(セカイ系)はある意味今最も陳腐であり、
終わらない日常を描くのは素人には明らかに荷が重い。
 
筆者が今作っているシナリオは、カッコよく言えば「破滅の予兆」を描く話だから、
ある意味上記のいずれにも属さないと思うが。
最後の制作、悔いは残したくない・・・。

*1:そういう意味では、筆者の大好きなマクロスプラスはやはりシリーズの中では異端だなあと思う。