なぜ俺にとってSEEDはダメだったのか

まず前提として。
俺はSEEDがどうも好きになれない。続編と比べれば・・・という意見も聞くが、
SEED、DESTINTY含めて全部ダメだと思っている。
じゃあ何がダメなんだろうか。




逆に、俺が好きなガンダムベスト3を上げると、
ポケットの中の戦争」、「X」、「ファースト」
という順序になる。この時点で俺の趣味が特殊だというのはわかると思うので、
SEED好きな人は趣味が合わない人の戯言だと思って流してください。


で、注目していただきたいのは1位の「ポケットの中の戦争
http://d.hatena.ne.jp/Liederjan/20060904/1157390240で自分でレビューしているが、
要するにこの作品、ロボットアニメではなく戦争アニメなのだ。世界観がガンダムなだけ。
でも、それってすごいことなんじゃないだろうかと思うのだ。
つまり、それだけでひとつの作品を成立せしめる「ガンダム」という世界観の“上に”、
敢えて「どこにでもいる一人の少年が見た戦争」というある意味ロボットアニメとはかけ離れた構図で蓋をしている。
まるで、苦労して何時間もかけて煮込んだブイヨンをベースにして、
さらに多彩な素材を加えてひとつの料理として完成させるような、そんな深みのある味わい。
そんな魅力がこの作品にはあり、俺は確実にそこに惹かれてこの作品をトップに据えている。


Xもある意味それに近いものがある。
この作品は、作品世界の歴史を「ガンダムという作品群」の歴史に見立て、
10年以上にも渡って繰り返されてきた「ガンダムという戦争」に対してひとつの答えを導き、
ガンダムの次の時代」への希望を若き主人公の未来と重ね合わせる、という構図になっている。
こういう前提があってこそ、“荒廃した世界で逞しく生きる少年の物語”というストーリーが導き出されるのだろう。


考えてみればファーストも、「ロボットアニメ」というには余りに人間臭い物語だ。
ガンダム」という超兵器を扱って戦うことになったばかりに、普通では考えられないような多くの悲劇を目の当たりにし、
それと同時に普通では考えられないような多くの異な出会いによって成長していく主人公の物語なのである。
ガンダムはあくまでアムロ・レイが「一番うまく扱える」兵器に過ぎず、アムロの分身でも相棒でもない。
そして彼は最後まで彼なりの思いをぶつけて戦い続け、最後にはそのガンダムを宇宙に打ち捨て、仲間のところへ帰ってゆく。
「僕にはまだ帰れるところがあるんだ、こんなに嬉しいことはない」と涙するアムロの姿に、
見ているこちらも涙を禁じえない。


・・・などと書いていて、気づいた。
つまり俺は、ガンダムを見るとき、ストーリーしか見ていないのだ。
もちろんMSという要素はそのストーリーと切っても切れない関係にあるし、
事実、個人的に好きなMSというのは存在する(それがハイゴッグというのがまた微妙だが)。
しかし、それはあまり重要ではないのだ。MSがいかにカッコよく動こうとも、俺はそれだけではガンダムを評価しない。
心を打つストーリーや、登場人物の葛藤、成長。
そういうものがガンダムという世界観、MSという兵器と結びついて初めて、ガンダムは評価に足る作品となる。
そんな個人的なハードルが、俺の心の中にあるのだ。


で、種を最初に見たときに俺が感じたものは、違和感。
MSはカッコいい。確かにカッコよく動いている。しかし、・・・と。
果たして違和感の正体とは、「MSがカッコよく動きすぎていること」であった。
言い方を変えるのならば、「MSがカッコよく動いているところにばかり目がいくこと」。
俺はこの作品において、
「MS以外の要素」の重要度が過去のガンダム作品に比べて明らかに低いことに薄々気づいていたのだろう。
それ自体が良いことか悪いことかは俺が判断することではない。
だが、俺個人にとってそれはまさに前述の「ハードル」に完全に引っかかるものだった。
いわば、「ガンダムがロボットアニメになってしまった」とでも言えばいいのだろうか・・・。


そして今期、まさに精鋭と呼べるスタッフが終結して作られる「ガンダム00
はたして、この作品はガンダム史の中にどう位置づけられることとなるのだろうか。
個人的には、00が「ガンダム」として楽しめる作品であることを祈るばかりである。