好きと嫌いは等価ではない。

他人が何かを好きだと言っていて、それを自分が嫌いなとき、
「何であんなモン好きなんだよ」と思うこと。
 
他人が何かを嫌いだと言っていて、それを自分が好きなとき、
「何であれが嫌いなんだよ」と思うこと。
 
このふたつの落差を、俺は見落としていたと思う。
自分の中の好きと嫌いの等価性を、他者との関係にまで持ち込んでしまった。
失敗だったと思う。
 
いや、好きだ嫌いだと言うだけならまだ良かったのかもしれない。
そこに論理を持ち込むことの危険性を、俺はまったく考慮できなかった。
 
自分が気に入ったものが嫌い=良くないということを、理論だてて語られる。
それは自分の中の好きという感情を理論だてて否定されることに近しい。
更に、その理論が中途半端な完成度でしかなければ、苛立ちは更に加速するだろう。
 
「読む人を納得させるには足りない」
と言われたことがある。
相手を納得させるだけの力のある文章であったならまた、印象は違ったかもしれない。
自分とは相反するが興味深い一意見という地位を得られたかもしれない。
 
しかし、俺にその力はなかった。俺に論客の地位は分不相応だった。
結局それは、「ムシャクシャしてやった。反省はしていない。」という態度であり、
俺は危機に立っている。
 
反省しなければならない。
けれど、それではこのブログをどうするのか。
結局今回の一件は、http://d.hatena.ne.jp/Liederjan/20090102で言及した
「自分にとってのこのブログの価値」が幻想であったことの露見であるとも言える。
自分の思うブログの価値を追求しても、現状ではそれは他人を不快にさせてしまうというのなら、
このブログは、Liederjanというはてな住民はどこへ行けばいいのだろうか。
 
とりあえず今は落語を聞くことにする。
 

馴染みある地名の登場するこの噺。
「曾我物語」風の仇討話が展開されるが、最後はとんでもない落ちが待ち受ける。
がまの油売りの口上を淀みなく披露する志ん朝のパワーに脱帽。
そういえば、かの有名な「外郎売」の口上も、
本来は曾我物語を題材にした「曾我物」の一幕で披露されたものだったとか。
 

両家の娘と奉公人の悲恋を描く人情物・・・・と思いきやのっけからギャグ全開の落とし噺。
刀屋さんが鈍いのかわざとやってるのか際どいところも絶妙。
志ん朝さんが亡くなったのは結構最近のことだが、志ん朝さんの落語の映像を直接見るのは実は初めて。
もうちょっと早くから落語に興味を持っておくべきだったか。
いや、小学校のころからNHKラジオ寄席とか聞きながら寝ていたんだけれども・・・。