自分らしくあるために

上地雄輔が「俺はバカじゃない」と言って羞恥心を辞めたがっている、という。
同じくヘキサゴン出身のPaboのメンバー、スザンヌも同様であるようだ。
 
おバカなキャラクターを売りにしたタレントは過去に数多いるが、
おそらくその誰もが、本当にバカなのではなくバカを演じているだけだったはずだ。
坂田利夫しかり、ガッツ石松しかり、江頭2:50しかり。
そして彼らは、バカを演じるという芸を磨き、バカを演じるタレントの地位を引き上げてきた。
 
上地雄輔の意向に親分たる島田紳助が怒り心頭、という話もある。
確かに、上地の態度は過去にバカを演じてきた多くの先人たちに対して失礼に当たるだろう。
舞台役者が服を脱ぐ演技を求められ、「恥ずかしいから嫌だ」と言っているようなものかもしれない。
 
だが、
本当に彼らがやっている、いや、やらされていることは、バカを演じてきた先人たちの後に続くべきものだろうか。
彼らが演じることを余儀なくされている「バカ」と、日本お笑い会に連綿と続く「バカ」の間に、溝を感じる。
 
羞恥心やFaboのメンバーは「クイズ」や「質問」に対して見当違いな回答をすることはあっても、
バラエティ番組などの自然なトークの中で天然を通り越して想像もつかないような受け答えをしたり、
ちぐはぐな会話を演出して笑いを取ったり、ということはほとんど無いように感じられる。
「台本どおり」という印象だ。あらかじめ決められた問題に対して決められた回答をするだけ。
先人たちが築いてきた「バカ」と比べると、どうもレベルが低いように感じる。
 
先人たちは「バカ」を自称し「バカ」を演じながら、そのバカさ加減に笑う視聴者に常に畏敬の念を感じさせてきたように思う。
今更、坂田師匠を「本当の馬鹿」だと思っている日本人はそうそういないだろうし、
ガッツ石松だってプロボクシングの元世界チャンプなのだから*1「本当の馬鹿」であるはずがない。
エガちゃんは正直危なっかしいけれど、Wikipediaの項目を隅々まで読めば彼の芸に対する真剣さが窺い知れるはずだ。
 
上地やスザンヌにはそういうものが感じられない。バカに必死さとかひたむきさ、覚悟みたいなものが感じられない。
おそらく、「やらされているだけ」だからなんだろうな、と思う。
 
「バカ」を演じてきた先人たちは、常に時代に逆行していた。
彼らの芸は笑いを生み出す反面、常に批判や謂れのない中傷、誤解にさらされてきた。
しかし、今巷に溢れる「バカ」を演じるタレントたちは、どちらかといえば時代に望まれている。
彼らの「バカ」が台本によるものであり、彼らが本当はそのような芸風を望んでいないのであればなおさらだ。
 
視聴者たちは、手軽な笑いの種を欲しがっているのかもしれない。
お笑いブームがだんだんと下火になり始め、人々は芸人に笑わせてもらうよりも、
テレビに出てくる「バカ」を指差して笑うことを求めているのかもしれない。
 
「笑わせるのであって笑われるのではない」
これがお笑いの基本であったと思うのだけれど、やはり、時代なのか。

*1:ボクシングは洗練された判断力と強い精神力が無くては勝負にならないスポーツであると聞く。