ゲームのやりすぎは健康によくない。

というのは自明であるとして、
 
トラックバック頂いたので反応してみる。
http://fcdg.blog47.fc2.com/blog-entry-47.html
 
ゲームもその他の娯楽と同様、「没入による感銘」以外のものを与えることは無く、
それはすなわち具体的な財産として残るものは何も無いのだという主張。
 
さて、これに関しては「娯楽」というものに対する考え方の食い違いがまずあると思う。
俺は、娯楽が何も残さないものだとは思っていない。
初っ端から話がズレてしまっているが、ゲームに関する主張は前の項で尽くしたのでこの主張を展開する。
 
適切な運動によってバランスよく身につけられた健全な肉体は間違いなく将来の財産となろう。
俺はそれと同様に、娯楽によって与えられた感銘によって身につけられた知的経験も、間違いなく将来の財産になると考える。
それはゲームに限らず、テレビであったり映画であったり、音楽であったり書物であったりするだろう。
どのような種類の娯楽(この場合は文学も含む)に関しても、それは同じだと思っている。
 
確かに知的経験は目に見えないし、それがその人にどれだけ身についたかを客観的に判断することは難しいから、
何も残さない、という観測が成り立つのもうなずける。
では翻って、自分自身の過去を思い返していただきたい。
現在の自分に影響を与えた娯楽作品(ゲーム、映画、テレビ、音楽、小説etc.)がひとつもない、
という人が、果たしているだろうか?
どんな人でも、無理なく思い出せる印象的なシーン、フレーズ、台詞などを持っているのではないだろうか?
 
例えば俺は、映画ならばSF冒険活劇の大傑作「バックトゥザフューチャー」シリーズ
アニメならば生まれて初めて観たアニメであるところの「劇場版宇宙戦艦ヤマト
書物であれば既存の絵本シリーズからすべての挿絵を廃して分厚い一冊にまとめた「ぼくはおうさま全集」
あたりを挙げることができる。
特に宇宙戦艦ヤマトの終盤、ヤマトは結果的にガミラス帝国を滅ぼし、焼け野原となった街を見下ろして主人公は、
ガミラスと「愛し合うべきだった」と嘆き、「何が勝利だ、クソでも喰らえ!」と自分の銃を投げ捨てる。
幼心に衝撃を受けたことを、今でも覚えている。
 
強く心に残る作品は、それだけ強くその人の心を動かしたはずだ。
そのような強い知的経験が、現在の自身の考え方、発想、言動、ひいては人格に全く影響を与えていないと、
断ずることが出来るであろうか?
人格が経験によって育まれることは、研究、何より我々の経験が証明している。
そして、人格、すなわち脳にとっては、肉体の物理的経験も、知的経験も、全く等価なものである。
 
健全な精神は健全な肉体に宿る。と云う。
 
しかしそれは、健全な肉体を育めば健全な精神も自動的についてくる、という意味ではないはずだ。
健全な肉体を持つことは豊かな国に生まれた者の義務であると考え、
それに拠って立つ健全な精神を育むことに、「娯楽」は必ず役に立つと主張したい。