秒速5センチメートルの話

を友人とする機会があった。
彼は「凄い」と認めながらも、しきりに「否定したい」と言う。
「このスタイルが流行るようになったら終わりだ」と。
秒速5センチメートルは、「現実」を視聴者に突きつける作品だと思う。
それは俺と彼の共通の感想だが、彼はそれを危険視した。
「現実を突きつけているだけで“語るべき物”を持っていない」
要は、「物語ではない」。
 
彼は、ラストの踏み切りのシーンについて、こうも言う。
「衝撃的なシーンだが、その前の1時間の映像を観客に見せる必要は果たしてあるのか。
 前提となる情報を映像以外のところから別の形で手に入れた上であのシーンを見ても、
 同じ衝撃を感じることが出来てしまうのではないか」
彼は、「物語を語ること」と「単に主張を語ること」との差を示すときによくこのような表現を使う。
「看板作って言いたいこと書いて街中に立てておけばいい」ということだ。
 
さて、では俺の得た「感動」としか呼べないあの感覚は何だったのだろうか。
果たして秒速5センチメートルは、俺に「現実」以外の何も見せなかったのだろうか。
 
踏み切りのシーンを思い出してみる。
電車が過ぎ去る。
主人公は誰もいない踏み切りの向こうをしばし見つめた後、うっすらと笑みをたたえた表情で振り返る。
俺は、「ああ、こんなものだよなあ」と思い、目頭を熱くする。
そうだ、この瞬間、俺は確かに主人公に共感している。俺と主人公に通じ合うものがある。
友人は「主人公が限りなく我々に、現実に近づいているだけだ」と言うかもしれない。
そうかもしれない。いやその通りだろう。しかし、彼の言うように、
「前提となる物語を情報としてのみ持った上で」このシーンを見て、これほどの共感を主人公に感じるだろうか?
否。
この強烈な同一感は、このシーンの前の1時間の映像によって視聴者の中に醸成されていたものが
一気に形を成したものだと言い切れる。これを味わうためなら、俺は何度でもこの作品を見るだろう。
 
友人はこの「何度でも見たくなる」という感覚についても認めながら、
その原因は「あまりに現実に近いところにあるから」であり、この作品の物語性の低さの証左だと言った。
 
だが、俺はこれには異を唱えたい。
物語性が低い、と言うには、第一話「桜花抄」はあまりにフィクションではないだろうか。
桜花抄で描かれたような体験をした視聴者が果たしてどれほどいるだろう。
中学校時代にあれほどの恋愛が出来ればそれは良い経験ではあるだろうが、あいにく俺にはそういう経験はない。
ある意味第一話は、こんなことが経験できればよかった、と今更思うような内容になっていると思う。
そして多くの視聴者は、雪の中で立ち往生する電車の中で凍える主人公の焦りと苦しみを理解できたはずだ。
そして共に焦り、苦しむことも出来たのではないだろうか。
こういう感情移入の感覚は、十分に物語的だと思うのだ。
 
そして第二話「コスモナウト」
主人公に好意を抱く少女と、その思いを受け止められない主人公。
これは多くに視聴者にとって、過去の経験と何かしら通じるところを感じる展開ではないだろうか。
恋愛の経験は持っていなくても、失恋の経験なら持っている、という人は少なくないはずだ。
更には、この第二話が少女を主人公とした真っ当な恋愛モノの様相を呈しながら始まる点にも注目したい。
つまり第二話は、フィクション的にスタートし過去の体験とつながりやすい最後を迎えることで、
作品がフィクション的なものから現実的なものへと移行しつつあることを視聴者に示す役割を持っているといえる。
 
そして第三話「秒速5センチメートル」で、視聴者は紛れもない現実を突きつけられる。
 
すなわち、この作品は、
「こんなことがあればよかった」
「こんなことがあったかもしれない」
「こんなものだ」
という3つの段階を設けることで、視聴者を無理なく作品世界に導き、優しく現実世界に引き戻すのだ。
 
ひょっとするとこの作品の魅力は、「観終わることが苦しくない」というところにあるのかもしれない。
この作品は、悲壮感を漂わせつつも救いを感じさせるラストシーンにおいて、視聴者に「現実」を提示する。
それはそのあとすぐ真っ暗になる画面の外の「世界」そのものだ。
だから視聴者はそのまま、「終わってしまった」という感覚を感じることなく、席を立つことが出来る。
ラストシーンに感じられる「救い」を、そのまま現実に当てはめて、である。
 
我々がこの作品を何度も見ようと思うのは、この作品の持つ、
いわば「滑り台」のようなこの構造に起因するのではないだろうか。
 
この作品について「物語としての内容がない」という批判は適当ではないと感じる。
ではこの物語の内容は何かといえば、「物語の主人公が、普通の人間になる」ということだろう。
そしてこの作品の持つ感動の源は、この作品が持つ限りない残酷さと表裏一体となる、深い優しさにあるに違いない。
 
もう一人の友人の言うとおり、この作品のようなスタイルが流行ることはきっとない。
これほどの「優しさ」を持って現実を描くことなど、到底出来ないのだ。「甘さ」や「悪辣さ」を持つことは出来たとしても。
 
この作品を否定する努力をする必要は、少なくとも俺には、ない。

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