何が言いたかったか思い出した。

何かを「嫌いだ」とか「よくない」と言うときにはそれなりの覚悟をもつべきだと思う。


「嫌いになる」という行動はとても簡単に実行できる。「好きになる」よりよほど簡単。
でも、「嫌いになる」ことによる自分自身への影響や、その結果としての周りの人々への影響を考えれば、
そうホイホイと物事を嫌いになっていいはずがない。


何かを嫌いになることでその人自身には何らかの益があるかもしれないが、
その影響が周りの人に及んだ場合、それは益には決してならず、良くて無害。
場合によっては害そのものだ。


その害の最たるものが、友人アムザック氏の言葉を借りるなら「嫌いなもの同盟」だろう。
何かを嫌いになった人が集まって、「あれって最悪だよね〜」などと毒づきあっているという状況。
それこそ最悪だ。見ているとリアルに気分が悪くなる。


悲しいけど、どんな集団でもこういう派閥は存在するものだ。成立しやすいものなんだろう。
そんなに楽しいか。毒づいてストレスを発散しあうのがそんなに楽しいのか。
それを傍から見ている人間の中には、それを見ているだけで激しいストレスを感じる者もいるというのに。


嫌いになるのをやめられないなら、せめてそれを表に出さない努力をすべきだ。
「嫌い」は有害物質だ。まるで有機水銀。流れ出すと周りの人の体の奥深くに沈み込んで、
消えないしこりとなって毒素を撒き散らし続ける。
「嫌い」の垂れ流しは、公害だと言っていい。
人に話さなくても、自分の中で反芻して自己確認すればいいじゃないか。
周りの環境のことを考えてもらいたい。


「嫌いにさせる方が悪い」と言う。
だがそれは、「いじめられる方が悪い」という理論と変わらない。
ファイナルアンサーは「原因は双方にある」だろう。
だから双方が省みる必要がある。(双方が、というのは対人関係じゃないと成立しないけど)


わがままは、男の罪。それを許さないのは、女の罪。――――― チューリップ「虹とスニーカーの頃」


どちらもギルティ。憎しみあっても仕方ない。
解決の糸口は、「許しあうこと」からしか導き出せない。


ここで、「解決なんて端から期待してない」なんて言うもんだから更に腹が立つわけだ。