リア充で何がいけないのか。

 
いや、リア充という言葉が現実と馴れ合って漫然と余裕ぶっこいて生きることを指すのであれば
筆者もそれは肯定しかねる。しかし。
 
オタクの対義語として「リア充」が用いられる時、
それは単にオタクがオタクでない(オタクになる必要のない)人々を十把一絡げにして
相対化し、彼岸に追いやり、自分とは関係ない人々として無視する、あるいは
前述したような無気力にヘラヘラ生きる唾棄すべき人々とみる、という意味を持つだろう。
 
そろそろこういう物言いには我慢が出来ない。
 
オタクになる必要のない人々がみんな楽して生きていると思ったら大間違いだ。
みんな自分で選んだにせよ偶然にせよ強制にせよ、自分に与えられた役割を必死にこなし、
そのほかの時間で必死に自分らしいことをやろうと頑張っているのだ。
 
たまの休日にゴロゴロするだけじゃもったいないからと、新作のドラマに目を通したり、
テレビや雑誌から自分に合った趣味を探したり、友達と連れ立って原宿や渋谷や赤坂や六本木に繰り出していくのだ。
それの一体どこがつまらないと言うのか。どこが唾棄すべきだと言うのか。
 
ぶっちゃけて言えば、リア充リア充とのたまう人こそ、十把一絡げに現実と向き合えない人だと糾弾することが出来るだろう。
みんなリアルを生きているのだ。あなただってそうだ。
 
社会があなたを拒絶している?
否。
あなたが社会を拒絶しているのだ。
 
ならばどうするか?
拒絶をやめて社会に入り込んでいくしかない。それが生きることなのだから。
 
ちょっと頭が良くて世の中を論理立てて語ることが出来てしまうがために、
自分の思考で作り上げた迷宮の中に閉じこもって、出てこようとしない人がいる。
理屈が何だ!「世の中はこうなっている」っていうことが解ったからどうだというんだ!
あなただってその世の中の一部なんだ。
それを相対化して外から眺めようなんて、そもそも間違っていると気づくべきなのだ。
 
どうしても世の中を相対化せずにいられないなら、それを仕事にしてしまうしかない。
その「頭の良さ」が他人に求められ、それに報酬が与えられれば、あなたは世の中を相対化しつつ、
見事世の中の仕組みの輪に加わることに成功するのだから!
 
とにかく、自分が現実に生きていることを受け入れ、
本来の意味で生きていくということが最低限出来るようにならなきゃ。
すべてはそれから。
 
俺はリア充なオタクをめざすぜ。