趣味、嗜好

は人それぞれ。
裏を返せば、同じモノでも、それを好む人と、好まない人がいるのは当然のこと。

というのを、うっかり忘れている人、結構いるんじゃないか。


「俺たち」は「俺たちが好きなジャンル」の「作品」を評価することで会話を成立させることが多いが、*1
そういう時、その「評価」は往々にして食い違っているものだ。
食い違いと言ってもそのレベルはさまざまで、
似たような評価でも注目する部分が違ったり、
逆に注目する部分が違うために評価そのものが食い違ったり、
見ている部分は同じはずなのに下す評価は正反対だったり。


しかし、そのような食い違いが起こる中、俺たちは心の奥底で、
「自分が言っている事は確実に一面の真理ではあり、時間をかけたり、伝え方を工夫すれば、
 会話を通じて相手にそれを納得させることが出来るはずだ」
と考えてはいないだろうか(俺だけかもしれないけどね。)


何が言いたいかというと、


「食い違い」が「趣味や嗜好」に起因していた場合、上に書いた考えが実現することはほぼありえない。
だって仕方がない、評価する人と評価する対象の「相性」が問題なのだ。
こういう食い違いを是正するには、相手か自分の趣味を変える必要がある。そんな無茶な。


どこまでも冷静で客観的な観点から下した評価ならば、それは確実に一面の(どころか普遍的な)真理であり、
時間をかけたり、伝え方を工夫すれば相手を納得させることは可能だろう。
しかし、俺たちが作品を評価するとき、「どこまでも冷静で客観的な視点」を持っているという保証はない。
個人的な考えを言わせてもらえば、俺たちのような素人はそんな視点でモノを評価することなど出来ないだろう。
プロの評論家にすら難しいことじゃないだろうか。(プロはそれが仕事だろうけど)


俺たちは会話の中で、ついつい相手に自分の価値観を押し付けてしまいがちだ。
まあ、俺たちのような集団の場合、押し付けた先でも似たような価値観があったりして、
スムーズな会話が成立することも多いが、毎回そう上手くいくわけでもない。
「〜〜が好きだ、嫌いだ、〜のここがイイ、ここがダメだ」と主張するのは自由だろう。
だが、気をつけなければならない。
その評価は、俺たち自身の中にしかない「趣味や嗜好」というフィルターを通して得られた結果なのだ。
それを相手と共有できるか否かを探りながら会話するのもいいだろう。
それを主観的な感想と認め、「こういう感じ方もある」ということを主張するのもいいだろう。
どちらにしても、「好みの差」による評価の食い違いがあることは認めるべきだ。


自分が思い切り貶している作品を、「好きだ」と言う人がいるかもしれない。
自分が褒め称えている作品を、「面白くない」と思う人がいるかもしれない。
そういうことを、頭の片隅に留めておく必要があるんじゃないだろうか。

*1:何でここまで婉曲表現してんだよ俺w