時には真面目な話を

知り合いのブログで面白い話題があったのでちょっと考えたことを書いてみる。
http://d.hatena.ne.jp/triyol/20060820


原作の世界観の忠実な再現、と聞いてまず思い浮かべるのは、やはりTV版AIRか。
逆の意味では、真月譚月姫も思い出される。


クリエイターの側から見れば、脚本、作画、演出などあらゆる面で
原作の世界観との整合性を要求されるのは、非常に窮屈な思いであろう。
友人の言うとおり、原作のないアニメを作るのが、クリエイターにとっては一番の幸せである。


ただ、この「原作の世界観に忠実」であるということは、具体的にはどういうことを指すのか。
逆に、どのようなことが、「原作の世界観」から作品を逸脱させるのか。
この辺りに、今時のアニメファンが「原作との違い」に反応するか否かのポイントがある気がする。


正直に言うと、俺自身も「今時のアニメファン」の一人である。
すなわち、TV版AIRを絶賛し、真月譚月姫を酷評するタイプの人間なのだ。
で、あつかましくも俺がそういうアニメファンを代表させて言わせて貰えば、
確かに我々は、アニメに原作の世界観の再現を求めてはいるが、アニメ独自の表現そのものを否定するつもりはない。
TV版AIRがなぜ絶賛されるのか。もちろん世界観を丁寧に再現したといえる作品だが、
具体的に言えば、この作品が再現したのは原作ゲームの「イメージ」ではないだろうか。
すなわち、「ゲームをやり終わって、ユーザーの心に残っているもの」である。
それは印象的な台詞かもしれない。BGMかもしれない。特徴的なキャラの表情かもしれない。
原作を離れたとき、ふと思い出す「断片」。
これこそが、原作付アニメが本当に再現することを求められているものなのではないだろうか。


だから俺は、

彼らが求めているのは自らの中にある揺るぎ無い世界観の再現であり、
世界観を広げる、増強するきっかけではない。

という友人の考えを否定させていただきたい。
多くの原作ユーザーの中には、「揺るぎ無い世界観」などないのだ。
たかがユーザー如き、その物語の世界観を完全に自分の中に取り込むことなど出来はしない。
我々が原作付のアニメを見ようとするとき望むのは、自分の中の世界観の再現ではなく、
自分の中にある原作の断片を再構成し、もう一度物語としてカタチにすることなのだ。


ここで、少し頭の悪い話になるが、スタッフが原作に直接触れているかどうか、というのが問題になってくる。
原作ファンは、原作に触れることで得たイメージをアニメにも求める。
ならば、アニメをつくるスタッフもまた原作に触れ、原作ファンと同じようなイメージを得ることが
原作ファンを惹きつける作品を作る上で必要であるはずなのだ。
ほぼ確実に、京アニのスタッフの上層部(監督とか演出とか)は原作をプレイしている。
逆に、真月譚月姫のスタッフ上層部は、恐らく原作をプレイしていないのだろう。
非常に素人臭い言い方だが、この2作品の違いはそういうところから来ていると思う。
ただでさえ忙しいアニメーターに、原作を知るという仕事を課すのは非常に心苦しいが・・・。


余談。あくまで私見
先に述べたように、原作ファンは、「原作のイメージをカタチにする」ことをアニメに求めている。
そして、それが成された時、原作ファンは、原作との比較を抜きにしてそのアニメを評価する。
なぜならアニメは、(よく原作にされやすい)マンガや小説、ゲームなどとは根本的に異なった、
次元の違う表現方法だからだ。
マンガやゲームというのは、どう転んでも2次元である。紙の上だけ、画面の上だけの存在であり、
ユーザーが彼らを受容するとき、そこには多分に「脳内補完」の機能が働くはずだ。
文字とわずかな挿絵からなる小説ならばなおのことである。
しかし、アニメは違う。アニメに(マンガや小説、ゲームに対して用いられるような)脳内補完の余地はない。
アニメは、他のメディアにはない、「実在感」のようなものを持っている気がするのだ。
キャラクターが線の連続という形とはいえ動き、他人の喉を借りるという形とはいえ喋り、物語を紡ぐ。
彼らは確かに生きているのだ。この感覚はアニメというメディアでなければもたらすことのできないものだと思う。
原作ファンが、アニメ化を喜び、そのアニメに期待を寄せるのは、
今までは紙の上や画面の上の2次元、あるいは自分の中の断片でしかなかった世界が、
「現実のものになる」ことを期待しているからではないだろうか。